父との別れ
東京に生まれる。
会社員の父、専業主婦の母の第1子としてたいそう可愛がられ、大切に育ててもらった。
ところが会社の帰り道で父が交通事故(当時は珍しい事件)に遭い、生活は一変。
父は即死。
母は2歳になる一か月前の私を連れて実家のある大阪に帰った。
物心がついた頃もまだ、周りは父の事故を私に隠していた。
ところが、たまたま遊びに行った伯母の家(津山)は、狭い街ということもあり事故のことが広く知られていた。ここで周りが隠そうとしていた父の事故のことが、私の耳に入ってしまった。
傷ついたという記憶はないが、明らかに死に対して独特の感覚を持つようになっていった。
好きなだけピアノを
実家とはいえ、母の両親は高齢で、兄夫婦一家との同居だった。そのため母は実家のすぐ近くに家を借り、職探しが始まった。
結果、母は生命保険会社へ就職。
その後、トップセールスレディーに上り詰めた。
一人で娘を育てる...並々ならぬ決意と努力だったと思う。
成功してからは、趣味にも生き、書道やトールペインティング、お菓子作りなどを楽しんでいた。
子供の頃の私は、自分の家と母の実家を祖母に連れられ行ったり来たり。
ただ実家の方にはアップライトのピアノがあったので、私は好きな時に好きなだけピアノに触れることが出来た。
私立の幼稚園に入ったが、大人の中で暮らしていたことと、もとより我が強かったこともあり、幼稚園生活には全く馴染めずにいた。
困った母が、ならばお稽古事ということで、絵画教室とピアノ教室に通うことになった。
習い事
絵画の方は小4まで続けた。
絵画では何度か児童画コンクールに入選し、先生にも可愛がってもらった。
しかし、先生のフランス留学を機に辞めてしまった。
ピアノの方は、気がつけば祖父母の家にいる間中いつもピアノに触っていた。
ピアノは先生がとても期待してくださっていたようで、様々な曲に触れることができたし、先生の指導も厳しかった。
ただ、中学生になり、先生の期待にだんだん息苦しさを感じるようになった。
諸行無常の響きあり
ちょうどその頃、それまで羽振り良くやっていた伯父の事業が急速に傾き始め、ついに倒産。
我々親族の生活も、一時は私服の警官に見張りをお願いする有様だった。
週1度夜に長時間お願いしていたレッスンにも、夜は危険とのことで行けなくなり、週2回明るい時間帯に通うようになった。
普通ならばもっと大人になってから死を意識するものかと思う。
しかし私は数奇な運命で育ったために死への感覚が独特だったようだ。
中1の国語の授業で平家物語が取り上げられた時のこと、「諸行無常の響きあり...盛者必衰の理をあらはす〜」が異様なほど心に突き刺さる...そんな子どもだった。
やればできる
中学は公立だったので、次に行く高校を決めなければならない。
小学校の頃は成績もよく優等生だったが、中学は地元堺市のマンモス中学。
当時1クラスが42名、1学年が19クラスという堺市内でも3番目に大きな学校だったため、小学校の頃とは学習環境も変わった。
そこへもってきて中1の冬は伯父の会社の倒産。
その後数ヶ月は母と暮らす決して広くはないマンションに伯父一家をかくまう生活。
更に数ヶ月後には祖母が倒れ、入院。
3ヶ月の入院中は付き添いが必要だった。
時には日曜日の午後、テスト勉強一式を持って私が付き添ったこともあった。
それが原因ではないものの、中2までは成績も中程度。
でもなぜか自分に自信を持っていて、いつも「やればできる」と信じていた。
またその頃から漠然と音大に入りたいと思うようになっていた。
夢をかけた努力
ただ母の方針で、音大に行くのであれば公立高校に入らなければならない。
入学した後もピアノの練習時間を確保できる位近くて、しかも何とかついていくだけの最低限の勉強で大学に進学できそうな公立は一校しかなかった。
更に、昔の田舎町は公立高校優位だったので、1000人近くいる生徒の中で上位3%に入らない限り私の条件に合う公立高には入れない。
そこに入る以外自分の夢が叶わないとわかった時、まずは近所でピアノも教えてくださるという関西二期会の理事をされていた声楽の先生の門下生になった。
そして塾。
数学と英語の塾に通い、中3の4月から半年かけて9教科の点数をひたすら上げていった。
努力の甲斐あり
第一志望に入学。
それと同時に中3時、一年間お世話になった声楽の先生から音大ピアノ科受験のための専門の先生を紹介してもらい、その先生の門下生となった。
この先生は私の運命の師匠。
今もお世話になっている。
実は結婚相手もこの先生のご紹介だった。
楽しい高校生活を送りつつ、新しい先生のご指導のもと無事に大阪音学大学ピアノ科に入学することができた。
初めての生徒は友人?
大学に入る直前、他大の保育科に入学が決まった友人のピアノ指導をすることになった。
これが私のピアノ指導の始まりである。
そして、この後続く学生時代に、幼児から小中高校生はもちろん、大学の保育科受験生・社会人・ご老人とあらゆる年齢・立場の方々のピアノ指導をさせて頂くチャンスに恵まれた。
ここままじゃいけない!
しかしここでまた一つ問題が起こった。
幼稚園以降、小・中・高と堺市(ガラが悪い?)の公立でなんとかやってきた私にとって、私立の音大は何かと馴染み難い所だったのだ。また、自分が大学で本当に学びたかったことは何だったのだろう...とも思うようになっていた。
そんな中、大学3年次に子どもの頃から世話になっていた伯母が癌で余命一年となった。
たまたま大学近くの病院に入院していたこともあり、最後の3ヶ月ほどは私も付き添いで病室に泊まり、そのまま大学に通う日が多くなった。
昔の女性は多くがそうであっただろうが、伯母は若くして結婚し、ずっと専業主婦であった。
そのせいかバリバリ外で働く母とは気が合わず、私もいつの間にか伯母とは距離ができてしまっていた。
しかし、病室で一晩中、伯母の話を聞くうち、働くことができなかった彼女の気持ち、家族への想いを初めて知り、私は突然、こうしてはいられないと思うようになった。
希望して入った大学に自分の望むものがなかったのなら、今の自分が心から望むところに行けばいいと思い直し、様々な条件から神戸大学大学院の院試を受けた。
大学院と演奏
1986年、無事院生となることができた。
大学院の2年間は本当に楽しく充実していたため、そのまま博士過程に進学したいと思うようになっていた。が、母の希望は結婚。
我が家の状況からそれに No とは言えず、修士で修了した後、養護学校の高等部で講師をしながら院生時代にお世話になった先生の研究・論文作成チームに入らせて頂いた。
それと同時に演奏活動。
結婚・・・つくばへ
そんな時、ピアノの恩師より夫を紹介され、大阪からつくばにやってきた。
1990年、当然ながらつくばには友人知人が全くおらず、地域社会との関わり持ちたさに近所のヤマハに飛び込み、講師として稼働を始めた。
1991年に長女、1993年次女が生まれ、その都度教室の方では産休を頂いた。
ヤマハ教室ではその後2002年まで稼働した。
子育てで苦戦
女の子二人だから育てるのが楽でいいね、と声をかけられることも多かったが、とんでも無い!
身体能力を高め、心身共に健康に育って欲しいと言う願いのあまり、ちょっとやんちゃな男の子二人よりもおそらくずっと大変な子育て期間だったと思う。
食べること、寝ること、遊ぶこと、幼児生活を支える中で、私自身が全ての面に混乱を生じていたと思う。
ありとあらゆる専門家の意見を求めながらそれを実践し、それなりの結果を見ながらまた次の問題に着手した。その間も仕事や家事は待ったなしなので、私自身が何度か点滴を打ち病院に行くこともよくあった。
母を引き取る
ピアノを教えながら、母が一人で暮らす大阪には、年に3回程度1〜2週間帰省。
1997年のお正月に帰省した時、母の異変に気づいた。
このまま大阪に置いておくわけにはいかないと心底思い、つくばに戻ってすぐ土地を探し始めた。
この年の春から長女は小学校に入学。この時次女はまだ幼稚園にも入っていなかった。
土地探しから始まった母との同居用の自宅建築だったが、その年の秋には何とか入居できるようになった。
年末には大阪から母も引っ越してきて、とりあえずやれやれと思った。
交通事故で亡くなった父は、当時33歳。
この時、私自身もちょうど33歳になっていた。
自宅レッスンに本腰を
当時の私は様々な疲れから体調が万全ではなかったため、何かと不安だらけであった。
一方、母の方はつくばに来たことで以前よりずっと良い状態で暮らせるようになり、私は母に助けられながら、自宅レッスンに本腰を入れ始めた。
ヤマハとは離れ完全に自宅レッスン
38才、この頃娘たちは小6と小3。
多感な頃だったので、家にいてやりたい。
そこで退職を決意した。
その頃、自宅の生徒さんはどんどん増え、50人に。
この後、当然ながら子供達の進学・進級があったが、今思えば仕事優先の日々だった。
子育て、勉強では落第生
長女は3月生まれ。
うちの子、バカかも?
と思ったほど、私は子育てに翻弄されていた。
生徒指導とは違う難しさがそこにあった。
ひらがなも数字も教えたが、まったく興味を覚えず、奇妙な暗号のようなものを書く有様。
小学校1年のテストなんて、100点取れて当たり前のはずが、見事に取れない。
なんで?娘の将来を心配したものだった。
そんな娘に4歳から私がピアノを教え始めた。
子育てとピアノ
苦戦する学校の勉強とは裏腹に
ピアノは初めから驚くほど上達が早かった。
数字には興味を示さなかったが、音符はすぐに覚え、指遣いも守っていた。
暗譜も早かった。
小学校3年生の時、ヘンデルのヴァリエーションを課題として与えたが、読譜も暗譜も素早く、曲の内容も理解していた。
短い練習時間でピティナの予選も100%の合格率であった。
しかし、相変わらず学校での彼女の評価は信じられないほど低いままであった。
馬鹿と天才は紙一重、とは言うものの
勉強面で低迷を続ける娘に業を煮やし、私は小学校の担任の先生に直談判したこともあった。
「うちの子の成績、なんでこんなに悪いのでしょうか?」
中学の成績も150人中ほぼ中間層。
中学から始まった英語のテスト。
初めはとても簡単なので、ほぼ全員が満点を取る。
このテストが90点以下だったら、これはもう学校の授業のせいではなく、娘の能力のせいだと 観念するしかない。
実際に娘のテストの点数を目の当たりにして私は決意した。
中1の夏休み、英語の塾に放り込んだ。
個人宅での1対1授業。
転ばぬ先の杖...いや、ほとんど転んでいた。
今思うと、その子の成長のタイミングに合あわせた指導と、その子の性質や内面を見極めたサポートが当然ながら必要であった。
どんなに素晴らしい指導・サポートであっても、それが全ての子どもに合うとは限らない。
そして、それぞれの子どもの伸びる時期というのはそれぞれ違って当たり前なのだ。
うちの子には、この子の内面をしっかり見つめ、理解し、全面的に受入れつつ教え導いてくれる指導者が必要だったのだと初めてわかった。
中1の長女は、放り込まれた英語の個人塾で、英語の勉強の仕方、語学を学ぶことの楽しさを知るようになり、英語の成績はもちろん、他の教科の成績もメキメキと上がって行った。
ピアノと勉強の両立
全く家庭学習などしなかった長女だが、自分でも目に見えて成績が上がり、周りの評価が変わってくると、多少は家でも勉強をするようになった。
それと同時にピアノの練習方法をも自ら改善し、学業との両立が確立した。
その後、子ども達はピアノを続けながら二人とも同じ県立の高校へ進学し、二人とも東京大学に入学した。
大学受験ギリギリまでピアノも弾いていた。
毎年11月に開催する当教室の発表会「オータムコンサート」に高3時も出演したいと言われ、「恥ずかしいから出ないで」とお願いしたほどである。
子育てとピアノ指導
これらの経験から、当ピアノ教室では生徒さん一人一人の成長過程をしっかり見極め、ご本人に寄り添いながら適切な指導をすることを一番に心掛けている。
生徒さんから・・・「癒される」と言われることが多い。
指導にあたっては、とにかくしっかり話を聞くことを心掛けている。その子の抱える「問題」は、その子にとってその問題を解決する「いとぐち」とも考えられるからだ。
保護者様から・・・子供の心をしっかり掴んでいる。
また、親に言わないことも先生には話している...と言われることが多い。
私はどうやったところで親御さんのかわりはできない。
だからこそ、親でもない、友人でもない、学校の先生でもない、だけど、いつも近くにいて信頼できる大人でありたいと思っている。
介護・・・ピアノ教室は?
しかし、ここでまたしても大問題。
少しずつ、少しずつではあったが、母の言動が普通では無くなってきていた。
病院でアルツハイマー型認知症と診断された。
これこそ現代における不治の病。
あんなにしっかりした人だったのに、あんなに孫達のことを可愛がってくれていたのに。
恐れていた昼夜逆転生活と徘徊が始まり、挙げ句の果てに行方不明。
警察からの電話でやっと母と再会できたのは夜中であった。
母の介護に悩みながらピアノ教室を続けるも、全く先が読めない。
産み、育て、今までいっぱい支えてもらった母を今度は私が支えていくしかない。
仕事を続けることは諦めよう...心の中でそう決めた。
一筋の光が
丁度その頃、新型コロナウィルス感染拡大。
茨城県も自粛要請が出て、とりあえず2週間だけレッスンを休ませて頂いた。
よく考えてみると、こんなに続けてお休みしたのは産休以来の珍事。
まとまった時間を得たので、レッスン室の断捨離をしたり、買ったまま読んでいなかった本を読んだり、レッスン動画を見たり...しているうち、友人からオンラインレッスンの話を聞いた。
フェイドアウトしていくつもりだった私には、初めのうち友人の話が遠い世界の話のように聞こえていた。
しかし、熱く語る彼女の話を聞くうち、急にある感情が浮かんできた。
「この人の生徒さんは幸せだな...」
そう思うが早いか、とっさに私は彼女に質問していた。
「それ、どうやったらいいの?」
一通りの方法を聞いた後、準備をして後日、彼女からオンラインレッスンを試験的に受けてみて感動!これ、楽しい!!!
更に後日、今度は東京にいる娘相手にオンラインレッスン!
なんだなんだ?こういう可能性ってあったんだ!
早速生徒さん全員に連絡してオンラインレッスンの始まり!
予め様々な準備が必要といえども、久しぶりのレッスンへの喜びと、新しい扉が開いたことへの期待感。
そして気づいてしまった!
ピアノが好き、教えるのが好き
やっぱり私はピアノを教えるこの仕事が大好きで、止めることはできない。
それに続けるのであれば、究極の目標は生徒さん一人一人の幸せ。
私が勝手に途中で止めることも、一人の取りこぼしも、あってはならない。
その後対面レッスンが再開し、またしても皆んなに会えた喜び爆発!
ピアノと共に
長く仕事を続けていればこそ、次から次へと様々な問題が起こる。
難なく乗り越えられる時もあれば、もう二度と立ち上がれない、と思う時もあった。
そこへ当たり前に家族の問題、自分自身の問題、社会全体の問題...いろいろあった。
それでも、家族や友人、生徒さん方や、そのご家族にまで助けて頂きながら、今もこしてピアノ教室を続けることが出来ている。
自分自身のこれまでを振り返り、痛感していることがある。困難に押しつぶされそうになった人間を救うのは愛情・感動・感謝の心だ。
これらがあれば、また、これらに気づいた時、それまで見えていなかった新しい道が見えてくる。
そこに一歩踏み出す勇気も湧いてくる。
そして、そこにピアノと共に生きてきたことで培われた様々な力がプラスされれば、最強かつ最高の自分を創ることができると。
☆教員免許:中学校、高校、共に1級免許
☆ナチュラルフードコーディネーター
☆一般社団法人「フィギャーノート普及会」ベーシックインストラクター
☆育脳ピアノレッスン認定教室
☆ピアノdeクボタメソッド認定講師
☆こども知育ピアノ協会認定教室
☆【千葉テレビ「モーニングコンパス」】に出演させて頂きました。
テーマは「自己肯定感」。
☆【TOKYO-MX 未来企業】TV出演&インタビュー
テーマは「ピアノこころの保健室」。